実録!本当にあった恐怖体験「今日の御言葉どうだった症候群」

実録!本当にあった恐怖体験「今日の御言葉どうだった症候群」

それは、わたしが聖書について学び始めたばかりのときのことでした・・

わたしは、摂理の礼拝に出る前、
聖書に詳しい先輩から、聖書についてひとつひとつ教えて頂ける機会がありました。
聖書をどうやって読むのかもちんぷんかんぷんだったわたしには、大変ありがたいことでした。

 

わたしは極めて平和に、かつ楽しく御言葉を学んでいました。

そんなわたしに、ついにそのときが訪れました。

 

「今日の御言葉、どうだった?」

 

御言葉を聞き終えたわたしと出会った、同年代のお姉さんは、確かにその言葉を発したのです。

「どうだった?」

ひとまず、疑問形ではあるため、自分がなにかを聞かれていることは明らかであり、
わたしは何か返答を返さなくてはいけないことは紛れもない事実でした。

 

「ミコトバ、ドウダッタ?」

 

少なくとも、御言葉についての質問でした。明らかにわたしの音楽の趣味については聞いていませんし、
わたしが甲本ヒロトにハマっており、クロマニヨンズのライブにも行って、
今はハイロウズ時代の曲を聞きまくっていると主張したい気持ちは少なからずありましたが、
明らかにその場にそぐわない回答だということは理解できました。

さて、この質問については、さまざまな意味が考えられます。

今日、御言葉を教えてくれた人、どうだった?
御言葉中のおなかの空き具合、どうだった?
聞いた御言葉は、あなたの人生にどうヒットした?

文脈から推測するに、おそらく「聞いた御言葉をどのように思った?」という意味でしょう。
わたしが御言葉中にファミチキを食べたくなったかどうか、それはさして重要な話題ではなかったということです。

ファミチキがいかに食べたいかについて言及できる質問だったなら、本当に良かったけれど、
彼女は、御言葉自体について、わたしがどう感じたのかを、聞いてしまったのです。

 

わたしは、何か言葉を返さなくてはいけませんでした。
若干20歳を過ぎ、成人を終えた身としては、それが彼女に対する最低限のマナーでした。

わたしは真剣に聞いてくれる彼女に答えようと、真剣に考えました。

 

えっ・・・どう?
どうって、どうもこうもない。

 

わたしは御言葉についての感想が思い浮かびませんでした。

やばい・・今まで知的で聡明なフリをして過ごしてきたけれど、
なにも考えていない薄っぺらい人間だとおもわれる・・・

窮地に追い詰められ、わたしはキラーワードを発するしかありませんでした。

 

「おお、お、お、おおおおもしろかったです。」

 

それは、あまりにも恐ろしい、不可思議な現象でした。
御言葉、また、それに限らずさまざまな物事について自分の感想を問われる、
もしくは問われないか問われないかと恐怖に怯える心の病。

これを「今日の御言葉どうだった症候群」と名付けることにします。

「今日の御言葉どうだった症候群」のよくないところは、
御言葉を聞きに行くのも、終わった後の感想のことを考えると、億劫に感じてしまうことです。

 

第一回目の「今日の御言葉どうだった症候群」を乗り越えたわたしに、
そのお姉さんは、コンマ1秒もなく再び尋ねました。

「どんなところが印象に残ったの?」

ど・・どんなところ・・印象・・・?
この人は、一体なにを求めているのか。
一学生にすぎない自分に、聖書を学んで印象に残ったところを聞いてどうするのか。

「今日の御言葉どうだった症候群」が治まったとおもえば、
「インショウノコッターノ不安障害」が発症しました。

これは、御言葉を聞いても印象に残ったところがないときに、
感想を尋ねられるのではないかと不安になる心の病です。

 

それは、返答するに、極めて困難極まりない質問でした。
あなたにとって、愛とはなにか?と問うレベルで哲学的かつ
人の生と死、霊界まで見据えなければ答えることのできない、最大の疑問。

「どんなところが印象に残ったの?」

わたしは困惑しました。
いっそのこと、プライバシーを投げ捨てて、名前と住所と郵便番号を教える方があまりにも簡単でした。
正常な脳ならば、自分の名前を忘れる人はいないでしょう。
5歳でえんぴつを握ったその日から、365日、自分の名前を書き続けてきました。

 

しかし、「印象に残る」とは、一度です。
そう、一度しかチャンスのない「印象に残ったところ」
わたしは印象に残ったところを覚えていなかったのです。

覚えていなかった。厳密に言えば、つまり、印象に残っていなかったのです。

そもそも「印象に残る」とは、体験的なものであり、
名前や単語を覚える記憶とはまた違った分類の記憶となるでしょう。

印象に残っていれば、繰り返し覚える努力をしなくても、なにか思い浮かぶはずでした。
しかし、わたしはなにも覚えていませんでした。

 

そのときのわたしの脳内に、なにかあったとしたら、それは空白でした。

 

 

「無」だったのです。

 

 

いま、自分は「無」だ。わたしは確信しました。

今まさに目をつぶり、瞑想を始めたならば、完全な「無」となれる。
ああ、これが「無」の境地か、わたしは悟りました。
今なら仏教も理解できるかも。

しかし目の前にいるのは、キリスト教の教えについて教えてくれるお姉さん。
「無」から「有」を創造する創造主神様を知るお姉さんには、「無」が通用しない。

 

そう、「無」から「有」を創造できるのは、人間ではありません。
まさしく、全能なる神様。

わたしは再び悟りました。
わたしは、自らでは存在することができない。

有って有る神様が創造してくださり、わたしは存在しているのです。
人間は、神様によって生きるしかないことを如実に感じられました。

自分一人では生きていくことができない。
神様と共に生きてこそ、意味のある人生だということだ・・。

 

そして、わたしはこのままでは進むことができない。変わらなくてはいけない。
そう気づいたのです。

うわべで聞くのではなく、御言葉に、そして教えてくださる人たちに真剣に向き合おう。
中身の「無」い自分になってはいけない。「有」る自分にならなければ。

 

 

そのように考え、わたしは「今日の御言葉どうだった症候群」に打ち勝つ秘法を会得するようになりました。

御言葉を聞いても、いい感想が思い浮かばない、とわたしみたいに焦る人は、

「すいません、わすれちゃいました。てへ」といえばいいのです。
「印象に残っていない」ということも感想のひとつです。

 

「ちょっと詳しい内容は思い出せないけど、聞く前よりもなんだかいい気分」
「今日の御言葉から、何を生活に生かせるかわからなかった」

そういうのでいいんです。忘れちゃったので教えてほしい、と困っているそぶりを見せたら、
自分よりも御言葉をよく知っている先輩が、きっともう一回教えてくれます。

 

わたしも御言葉を終えたあと、先輩と話しながら、やっと理解できることもたくさんありました。

先生が何千回も聖書を読んで、やっと悟った御言葉です。
自分が殴られたとき、反対側のほっぺを差し出すのか、
思い切り殴り返すのかもわかっていなかったわたしたちです。

小1時間で聖書を理解できてしまうのも割に合いません。
やたらと詳しそうな先輩たちだって、きっと完全にはわからないこともあります。

 

わたしは今、礼拝に出て3年も経ちますが、わかるようでわからないなと感じるときがあります。
でも、何年経っていても、別に知ってるふりをしなくていいのです。
どうせ神様は、わたしがわかっていないことをご存知です。

わからないことは、ひたすら正直に神様に尋ねればいいです。

「むずかしくてわからなかったです」「あまり感動しませんでした」
正直に話す準備ができたら、「今日の御言葉どうだった症候群」は消え去るようになります。

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