最初から完璧な信仰でなければいけないわけではない話

最初から完璧な信仰でなければいけないわけではない話

わたしが摂理の礼拝に出るようになる前、
御言葉を教えてくれる先輩たち、友人たちと接しながら、疎外感を感じていました。
みんな、わたしによくしてくれるし、ごはんもおかしもくれるし、とってもいい人たちでした。

でも、わたしがハッキリとわかっていない御言葉や神様を、
みんなはハッキリとわかって、強い信仰も持っているのだろうと思うと、
わたしはみんなとは違うのだろう、と疎外感や悔しさを感じていました。

御言葉を聞く中で、わたしが悟れていないところがあると感じたし、
また、そういう状況がいやで、どうにかして抜け出したい思いでいっぱいでした。

先輩方に、どのようにして今の信仰を持つようになったのか、たくさん聞いて尋ねました。
お祈りしながら主を悟るようになったよ、御言葉通り実践したら主の愛を悟ったよ、など
いろいろと教えてくださるのですが、まず「悟る」という言葉が気に入りませんでした。
「悟る」という状況がなんなのかうまくイメージできず、その言葉が出るたびにすごくイライラしていました。笑

それでもやるべきことは自分なりにがんばろうと思い、
続けてわたしが今わかっていないことを、心でハッキリと悟って認められるようにとお祈りをしていたけれども、
そのときは手応えが感じられず、のれんに腕を押すような印象を受けました。
自分が今やっていることに意味があるのか、よくわかりませんでした。

必ず与えてくださっていたものはあったと思いますが、
神様の働きとして認めることができなかったり、自分としてはあまり気に入らなかったり、
まあとにかく、あまり気づかなかったのです。

そしてあるとき、わたしはこの気に入らない状況を抜け出すことを考えました。
悟ったという状況がなんなのかわからないけれど、色々と悟ったということにして、
ひとまず御言葉の内容も全部認めて、もっとこの世界に飛び込んでみようとおもいました。
それは摂理の礼拝に出るという行動でした。

お姉さんにお願いし、教会の礼拝に出てみると、摂理のことをもっと知るようになりました。
いつもと違う場所で、新しく聞ける御言葉は新鮮でした。

意外だったのは、主や御言葉を悟ることに、自信を持っていない人もいたことでした。
摂理のメンバーなら、全部なんでも完璧に悟っているんだとおもっていましたが、それはちがいました。

完璧に悟った人、完璧な信仰を持った人が教会に通い、摂理の人として過ごしているのではなく、
みんな続けて努力して、もっと霊的にレベルをあげようとしているように感じました。
悟っているかいないかよりも、神様の御心に続けて挑戦していくのかどうかだとおもいました。

結果的に、わたしは最初、わかりきっていないことも多くあったけれど、
礼拝に出て、摂理の人たちとももっと一緒に生活し、
新しい御言葉をたくさん聞いて学ぶ中で、多くのことを悟るようになってよかったと感じます。

 

礼拝に出て、もっと神様のことを考えるようになりました。
わたしは本当に肉のことしか考えない人でしたが、
教会で過ごす中で、もっと霊のことを大事に考えるようになりました。

教会に行くようになってからの方が、信仰生活が楽になりました。
御言葉ももっとたくさん聞けるし、お祈りももっと集中してできるし、
普段できないことは、ここではやりやすいです。

最初は霊のことを全く大事にしていませんでしたが、
ちょっとずつ信仰生活に挑戦していくうちに、
いつの間にか熱心に祈りたいと願うようになったし、
いつの間にか御言葉をもっと深く知りたいと求めるようになりました。

そんな感じで、できないことも神様と一緒にちょっとずつやればいいんだなあとおもいました。

 

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